筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』(2011)

つい読みたくなったので。

古典力学から量子力学への移行、つまり、物理量が非連続になる、測定結果が統計的になる、測定後に状態が収斂する、不確定原理が成り立つ、系が重ね合わされた状態が存在する、といった素朴な(?)自然観が変転する事態が一体どういうことなのかを、量子スピンを例にまとめあげている(と思う。要約にマジで自信がない)。
まず、EPR論文の話。量子力学の理論では、物理量は局所的に実在性をもつという観点において、全体の系の状態が決まっていても複数の部分系の状態が観察するまで確定しない、という量子もつれを認める。これに対してEPR論文では、実在性を主観的な測定に依存させてしまうこと、また局所的でない物体間の相関を認めてしまうことから量子力学の理論が不完全だ、という主張がなされる。
EPR論文が実験で検証可能になり、結果反証されてしまうこととなる契機となったベルの定理ベルの不等式の破れ)の話が続く。古典力学が依拠する局所性と実在性にもとづくかぎり、完全相関とランダム性を同時に満たすような方法はないことが示される。が、完全相関とランダム性を同時に満たす事象が実験で起こせ、かつ量子力学において説明されうることが分かってしまう。ここにおいて、「物理量は局所的に実在する」という見方が否定されることになり、量子力学における実在性の性質が謎となる。
次いで、不確定性原理を証明するコッヘン-スペッカーの定理の説明。不確定性原理は系の状態と独立に物理量(実在性)をもつ物体が成立しない(たとえば、x軸方向のスピンとz軸方向のスピンの測定値が同時に確定した状態は成立しない)ことを指す。この原理の下で、粒子における共存的(同時測定可能)な物理量の範囲にかぎっては、素朴な実在を認められるのではないか、という問いを否定的に証明しているのがコッヘン-スペッカーの定理。この定理によって、実在の状況依存性=「ある物理量の値が共存的な物理量の選択に依存し、したがってその物理量の独立した実在を考えることができない」(p.65)ことが示される。
最後に、決定論の問題(コンウェイとコッヘンの自由意志定理)が取り上げられる。物理学において、理論内部では因果律に従う決定論を、理論外部では自由意志にもとづく非決定論を前提としているが、これまでの議論を援用することで、物理学の議論として決定論を否定する定理。

もし我々が測定の方法に関して自由意志に基づく選択が可能であって、かつ局所性が満たされているとすれば、我々と同じ意味での自由意志が測定の対象である物理学にも存在することを論理的に示すことができる。物理系はスピンを持つ粒子であれば何でもよいから、電子や光子のような素粒子でも構わない。言い換えれば、自由意志の存在境界は、非生物である素粒子にまで拡張されるというわけである。(p.84)

実験は、ふたりの共謀していない人間がそれぞれ独立な物理量の状況を設定させ、ランダム性と完全相関を備えた判定機のもとで複数の粒子の組を発生させるというもの(うまく言えん……)。このとき、自由意志、局所性、決定論の3つの仮定に反する結果が表示される。自由意志定理は、このうち決定論を否定する、というもの。ただし決定論を否定した場合、粒子はふたりの人間が状況を規定するまでは量子もつれの状態にあり、かつそのもつれ方は粒子の組のもとで完全相関にある、という局所性と緊張関係にある((ここはどういうことかあんまりわかっていない奇妙な現象となっている。

以下雑感

  • 物理学に馴染んだ人間が一般向けに量子力学の理論を受け入れるための概念セットをたったの100ページで平易に伝えてくれるのはすごい(自分の知見ではこれがどのくらい物理学徒目線で真っ当なのかは判断できないが)
  • 自然言語は冗長かつ喩え話に頼らざるを得ない場面が多くて、けっきょく数式が欲しくなる(数式がほとんど出てこないギルボアの意思決定理論の本を読んだときも同じ感想を抱いた)
  • 「自由意志」は人文学徒の用語法ではなくて、単に非決定論ですよね。自由意志も決定論も認めない立場は大いにありうるので
  • ちゃんと数式ある本を読みます……