2021年4月 読んだもの

4月は中旬にレジュメ切りがあったのでその調査用と、それが終わったあとの小休憩という感じ。あとはIoT農家がどうのこうのとか業務用とか。一部だけかいつまんだ本は結構多かったけれど、読み終わった本はほとんどない。来月潰していきましょう。

 

論文

・峰島旭雄セット

その他

  • 郭馳洋(2018)「明治期の哲学言説とネーション・社会 : 井上哲次郎の「現象即実在論」をめぐって」
  • 宮永孝(2005)「西洋哲学伝来考:室町時代末期から明治期まで」
  • 繁田歩(2020)「カントにおける「真とみなすこと」概念」
  • 松井隆明(2017)「フッサールにおける本質認識とそのアプリオリ性」

空き家AirbnbカフェIoT農家の夢?

すこし前から、起業をしたいとか、農業をやりたいとか、カフェをやりたいとか、持ち家がほしいとか、人気ブロガーになりたいとか、これまで自分のなかに見覚えのなかった欲望が、突如として沸き起こってきた。
さらに、その欲望冷めやらぬうちに、案外やれるんじゃ?おもしろいのでは?うまくやれば生計立てられるんじゃないの?となんだか「その気」になってきてしまった。魔が差した、というやつだと思う。これまで、ほとんど考えたこともないジャンルの欲望を形にしようとするとどうなるのか含めて気になってきた。せっかくだし、達成または挫折の記録という意味でこれからブログに残してみたい。

いま僕は27歳で、会社員として働きはじめてから3年目になる。
ITコンサルで、労働時間*1や個人の専門性*2に対して給料が低いとはあまり思わないし、大きな不満はない。業務時間中に退屈を感じることは多い気はするし、仕事を楽しく思えたことはあまりないが、そのくらい。
ただなんとなく、いまの仕事をいつまで続けるのだろうか、続けることはできるのだろうか、という漠然とした不安が鬱陶しくなったタイミングで、なにか思い切ったことをはじめたい気分が生まれて、「その気」になってきたのだと思う。

人間、それなりに魔が差す機会はあると思う。
6年ほど前、学部4回生の頃に、内定をもらって入社前研修まで受けていた会社の内定を「なんかちょっと会社で働くって感じとちゃうな」と思って辞退して、休学・留年し、院に進学した*3
そのさらに4年前、大学入試の願書を出すときにも、直前でどうしても「なんか工学部って気分じゃないな」と思い、いっときは本気で目指していたはずの工学部ではなく、教養系の学部に志願したこともあった*4
それに、恋愛なんてだいたい魔が差した結果かもしれない。

魔が差したときに必要なことは、魔が差さなかった可能世界こそ望ましかったのではないか、というおなじみの疑念と後悔に精神をやられないようにすることだけだという気がしている。とはいえ、その方向に突っ切ればうまくいくわけでもない。
最近になってようやく、「よっしゃ、いまの仕事やめて農家やろ!」に突っ切ろうとしたがる、己が心に住まう小学生を制止できるようになった。失敗してもいいとは思っているけれど、失敗することはいい加減怖くなってきたし、金が絡むとなおさらだ。夢物語もすこしは現実的に目指したい。

とりあえずは「空き家AirbnbカフェIoT農家」を目標に、行きあたりばったりでいろいろ調べたり試したりする。「ホンマにそんなんできるんか?」とかの下調べをしつつ、植物や機械とちょっとずつ触れ合おうかと思っている。なぜなら、朝顔よりも育成の難しい植物を育てたことがないから……。

やること

  • 最近のイケイケなITを使った農業のことを調べる
  • ラズパイなどの機械いじりをはじめる
  • もやしだのかいわれ大根だのの育成をはじめる

*1:同期や同業者の残業度合いや多忙っぷり、苦労・不運はときどき耳に挟むけれど、とても同じ職種の仕事とは思えない。僕はかなり運がいいのだと思う。

*2:大学では社会学の研究をしていて、ほかにも好んで哲学などを勉強してきたが、ほとんど就職後のことは考えてこなかった。IT系の専門知識もなければ、インターンに参加したこともない。これまでに経験してきたアルバイトは、コンビニ(主に夜勤)、運送屋、葬儀屋、医療事務、塾講師(大学生対象)。

*3:その後、研究者を目指すつもりだったけれど、学振に落ちたタイミングで「バイトしまくりながら研究するいまの生活をあと何年続けるつもり?」というゴーストの囁き、もとい、そう甘くもない現状から生まれた自身の悲鳴に屈し、あわてて友達に相談し、秋からでも翌春に入社できる会社・業種リストを送ってもらい、なんやかんやして、いまの勤め先に入社した。

*4:結局、その学部・研究科で7年間過ごすことになる。

2021年3月 読んだもの

 

論文

2021年2月 読んだもの


論文

  • 渋谷久(1975)「哲学的人間学の構想――カントの場合――」『長野大学紀要』5: 73-81
  • 齋藤伸(2014)「カッシーラーにおける文化哲学としての哲学的人間学の理念:シェーラーの人間学との比較的視点から」『聖学院大学総合研究所紀要』58: 273-300
  • 鈴木伸国(2012)「哲学的人間学の趨勢と人間学へのその寄与」『人間学紀要』42: 131-152
  • ディーター・ヘンリッヒ(戸田行賢訳)(1959?=1977)「神の存在論的証明の歴史――デカルトからカントまで――」『津山工業高等専門学校紀要』15:56-80*1
  • 今井道児(1967)「E.R.クルツィウスにおける批評」『ドイツ文学』39: 69-78
  • 桂芳樹(1973)「E.R.クルツィウスの「ヨーロッパ文学とラテン中世」の問題点」『ドイツ文学』50: 16-26
  • 山森裕毅(2010)「ドゥルーズ『差異と反復』におけるコギト論」『年報人間科学』31: 31-48

*1:元草稿はDie Geschichte des ontoogischen Gottesbeweises von Descartes bis Kant“という1959年のベルリン大学講演の草稿とのこと。出版されているかは分からず

筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』(2011)

つい読みたくなったので。

古典力学から量子力学への移行、つまり、物理量が非連続になる、測定結果が統計的になる、測定後に状態が収斂する、不確定原理が成り立つ、系が重ね合わされた状態が存在する、といった素朴な(?)自然観が変転する事態が一体どういうことなのかを、量子スピンを例にまとめあげている(と思う。要約にマジで自信がない)。
まず、EPR論文の話。量子力学の理論では、物理量は局所的に実在性をもつという観点において、全体の系の状態が決まっていても複数の部分系の状態が観察するまで確定しない、という量子もつれを認める。これに対してEPR論文では、実在性を主観的な測定に依存させてしまうこと、また局所的でない物体間の相関を認めてしまうことから量子力学の理論が不完全だ、という主張がなされる。
EPR論文が実験で検証可能になり、結果反証されてしまうこととなる契機となったベルの定理ベルの不等式の破れ)の話が続く。古典力学が依拠する局所性と実在性にもとづくかぎり、完全相関とランダム性を同時に満たすような方法はないことが示される。が、完全相関とランダム性を同時に満たす事象が実験で起こせ、かつ量子力学において説明されうることが分かってしまう。ここにおいて、「物理量は局所的に実在する」という見方が否定されることになり、量子力学における実在性の性質が謎となる。
次いで、不確定性原理を証明するコッヘン-スペッカーの定理の説明。不確定性原理は系の状態と独立に物理量(実在性)をもつ物体が成立しない(たとえば、x軸方向のスピンとz軸方向のスピンの測定値が同時に確定した状態は成立しない)ことを指す。この原理の下で、粒子における共存的(同時測定可能)な物理量の範囲にかぎっては、素朴な実在を認められるのではないか、という問いを否定的に証明しているのがコッヘン-スペッカーの定理。この定理によって、実在の状況依存性=「ある物理量の値が共存的な物理量の選択に依存し、したがってその物理量の独立した実在を考えることができない」(p.65)ことが示される。
最後に、決定論の問題(コンウェイとコッヘンの自由意志定理)が取り上げられる。物理学において、理論内部では因果律に従う決定論を、理論外部では自由意志にもとづく非決定論を前提としているが、これまでの議論を援用することで、物理学の議論として決定論を否定する定理。

もし我々が測定の方法に関して自由意志に基づく選択が可能であって、かつ局所性が満たされているとすれば、我々と同じ意味での自由意志が測定の対象である物理学にも存在することを論理的に示すことができる。物理系はスピンを持つ粒子であれば何でもよいから、電子や光子のような素粒子でも構わない。言い換えれば、自由意志の存在境界は、非生物である素粒子にまで拡張されるというわけである。(p.84)

実験は、ふたりの共謀していない人間がそれぞれ独立な物理量の状況を設定させ、ランダム性と完全相関を備えた判定機のもとで複数の粒子の組を発生させるというもの(うまく言えん……)。このとき、自由意志、局所性、決定論の3つの仮定に反する結果が表示される。自由意志定理は、このうち決定論を否定する、というもの。ただし決定論を否定した場合、粒子はふたりの人間が状況を規定するまでは量子もつれの状態にあり、かつそのもつれ方は粒子の組のもとで完全相関にある、という局所性と緊張関係にある((ここはどういうことかあんまりわかっていない奇妙な現象となっている。

以下雑感

  • 物理学に馴染んだ人間が一般向けに量子力学の理論を受け入れるための概念セットをたったの100ページで平易に伝えてくれるのはすごい(自分の知見ではこれがどのくらい物理学徒目線で真っ当なのかは判断できないが)
  • 自然言語は冗長かつ喩え話に頼らざるを得ない場面が多くて、けっきょく数式が欲しくなる(数式がほとんど出てこないギルボアの意思決定理論の本を読んだときも同じ感想を抱いた)
  • 「自由意志」は人文学徒の用語法ではなくて、単に非決定論ですよね。自由意志も決定論も認めない立場は大いにありうるので
  • ちゃんと数式ある本を読みます……

カッシーラー『国家の神話』(1950[1946]=2018)

読書会で読んだ。3か月くらいかかってる?

国家の神話 (講談社学術文庫)

国家の神話 (講談社学術文庫)

 

 

ざっくり言えば、政治生活の根幹にあったはずの合理的な政治思想の相が、なぜ第一次大戦以後に神話によって蹂躙されてしまったのか、という話。

まず第一部では、非合理的で比喩を解しない原始的な性格を持つ神話が、人間にとってどのような効果を発揮するのか(機能)が、心理学と人類学の知見、そして象徴的人間という彼の概念枠組みによって定式化される。「神話は人間の社会的経験の客観化」であり、「形象とは知られていない」(p.81)もので、かつて哲学者たちが認識に対して二次的なものと見なしていた情動にかかわる。人間は神話によって「諸々の本能、様々な希望や恐怖を組織化する」。
カッシーラーは、これまで神話を研究対象としてきた者たちのように神話が人間にどのような主観的意味をもたらすのか、と問うのではなく、神話が人間の社会生活に対して先のように機能するものだと断じる。その上で第二部では、政治学説史において、理性と神話がどのような関係をもってきたのか――思想家たちは神話に対する理性の優越をどのように政治学説として打ち立てようとしてきたのか――を描く。
第三部では、20世紀の全体主義国家に理論的な寄与をしたと考えられている3人を取り上げ、ナチズムとの一致を確認する。しかしナチズムは政治的神話の技術によって三者の英雄崇拝、人種主義、国家主義をひとまとめにし、人びとを統御した。言語機能の呪術化と儀礼の徹底を通じて政治的神話を技術的に建立し、人びと――教養人とて例外ではない――の意識を変革させしめた。
政治的神話への抵抗力を失わせ、人間精神の再興を断念するような思想を論じたシュペングラーやハイデガーを批判し、「敵を知る」という哲学の道徳的役割を訴えて最後の章が閉じられる。

雑感。
・あらゆる議論が手際よく整理されていて勉強になった、驚くべきことに、とてもコンパクトな本(500ページ以上あるが……)
・結語でアドルノかなんかに意識でも乗っ取られたのかと思った
・ないものねだりをしたくなる感覚に襲われていたが、読み終わったら忘れてしまった
・ブルーメンベルクが技術概念に張り付いているのはカッシーラーの議論を進展させようとしている、と見なすのは穿ちすぎか?